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毘沙門天の由来
Vaisacuteravansubdota history
〜 山梨名鑑より(一部抜粋) 〜

其の祖 甲斐源氏義光より出づ。中興姓を中楯
と言う。

世々 武田氏に仕えたり。宗栄この時、武田軍敗る
に方り、勝頼に従い田野に逃げる。勝頼自害せんと
するや、宗栄を召し其の持する処の毘沙門天を示し
曰く 是れ我祖 新羅三郎の本尊佛にして 以来我家
の重宝、旗、楯無と共に尊敬せしなり。

 今之を戦塵し中に埋没せんこと誠に恐懼に堪えず。
汝之を奉じ逃れて以って佛寺に附託すべし と言い終
えて自害す

宗栄遺命に従い、村に来たり 一宇の堂を健立す。
之を安置、朝夕奉供怠らざりしと言う。其の甥助右ヱ門
性を中楯に改む

この時、毘沙門天を大慈山義雲院に奇納す。作は
行基作と言い伝ふ。

                          


解説

長篠の戦以後、諸々の戦いに敗れた武田軍は、追われるようにして、天目山南麓の田野の地(現在の山梨県大和村)に辿りつく。

その場所で自害目前の勝頼は、武田家家臣のひとりであった宗栄に対し、武田家に代々伝わる『毘沙門天』を佛寺に奉るようにとの命ずる。

その命に従い 宗栄は尼寺光明院廃跡に毘沙門堂を建立し安置し、朝夕供養をかかさなかった。
 
後に、この毘沙門天を宗栄の甥にあたる中楯助右ヱ門が、義雲院に奇納する。

あらゆる文献で、作は行基作と言い伝えられてはいるが確証はない。

現在の毘沙門堂は、平成14年現住職 宗純代にに再建されたもの

                          


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